アイルランドを離れ英国でご活躍されている「テシメルコ」のこゆきさん。
彼女のブログを拝見していたところ「お!」と注目してしまいました。
そう、アイルランドの音楽イベントVantastival参加のため、緑の国に再上陸。
せっかくなのでレポートをお願いしたところ喜んで書いていただきました。
イギリスからアイルランドに渡る手段にフェリーとはなんともツウ。
欧州での活動もだいぶサマになってきましたね。
今後の活躍にエールとスロンチャ!を。
そう、アイルランドの音楽イベントVantastival参加のため、緑の国に再上陸。
せっかくなのでレポートをお願いしたところ喜んで書いていただきました。
イギリスからアイルランドに渡る手段にフェリーとはなんともツウ。
欧州での活動もだいぶサマになってきましたね。
今後の活躍にエールとスロンチャ!を。
こんにちは!
Tecimericoのボーカルこゆきです。
5月1日〜3日にアイルランドのダンドークというところで行われたVantastivalというフェスに参加してきました。
初めての野外フェスでとてもいい経験をさせてもらえました^^
〜行き方〜
ロンドンから、ダブリンまではフェリーを使いました。
今回は船にしたのは、飛行機代(ライアンエアー)19、9ユーロなのに、楽器代で追加料金120ユーロくらい取られちゃう!から。ロンドンから空港までバスで20ポンドくらいかかっちゃうし。(2015.5月現在、1ポンド=185円=1,38ユーロ)
飛行機の場合は、インターネットで予約するときに一緒に荷物代も払ってしまったほうがお得です、当日窓口で払うとなぜか割高!!普通の旅行で利用される 人はライアンエアー指定のお金のかからないサイズで荷物を機内持ち込みするのがよいと思います!
船だと、ロンドンから港までの電車代とアイルランドまでのフェリー代含めて39ポンド!楽器もスーツケースも自転車も車もペットも全部運べちゃうという!!
ちょっと時間かかるけど旅行気分でいいですね♫
このサイトで予約しました。
ネットで予約したあと、近くの駅のマシーンでチケットを発券。
行き帰りのすべてのチケットがまとめて印刷されるので、20枚くらいに!!
1枚にまとめればいいのに!!
帰りのフェリーの中でベトナム人の男の子と友達になって、彼はチケットを事前予約しないでその場その場で買ったとのことで、片道120ポンドかかったと言っていました。私は片道39ポンドで購入、絶対ネット予約した方がよいです!!!
余談ですが、イタリア旅行に行った時、電車のチケットを全部窓口で買ってたんですが、多分それも事前ネットの方が安かったようです。。
話は戻り、、船は一番安い時間帯の20時ロンドンのユーストン駅出発の5時55分ダブリンポート到着のチケットにしました。
(昼間出発だともうちょっと早く行けます)
ユーストンから西に向かって4時間弱、ホリヘッドというところに到着します。
チケットによって電車の乗り換えがあったりなかったり、、
ホリヘッドで2時間待って、フェリーでダブリンポートへ!
今回は私たちはアイリッシュフェリーを利用しました。ネットで申し込むときに何種類か船の種類を選べます。
船内は背もたれを倒せる椅子があって、軽く仮眠できるようになっていました。
メインデッキのソファやイスでも寝てる人がいました。
そんなわけで無事ダブリンに到着!
いざ、ダンドークへ出発!
ダンドークというところはダブリンからノースアイルランド、ベルファストへ向かう途中にある、アイルランドとイングランドの国境のギリギリにある小さな町です。
レンタカーを借りて車で1時間半くらい。
前日までバスで行くか車で行くか悩んでましたがレンタカー借りて正解でした。
(バスはストライキで2日くらい動いてなかった)
ダブリンを出発するときは晴れていたのですが、だんだん雨模様に。。
着いたら大雨にさらされ足元が土なので靴が悲惨なことに、、、
でも午後からは少し晴れ間も見えてよかった、、
前日はずーーっと雨で大変だったみたいです。
ステージは全部で3つ、あとは小さいのがたくさん、で私たちは一番大きいステージでライブさせてもらいました、イエーイ!
とってもいい雰囲気です♫
こちらは屋内のステージ。
(全部ステージ行きたかったですが、地面がぬかるんでて移動が難しく全部写真撮りきれなかった、、、。長靴で行けばよかった!!)
こちらはキャンプエリアの様子。
本当に素敵な雰囲気で、会場内に廃墟みたいな建物もいくつかあって、アイルランドらしい!
キムにもマネージャーでついてきてもらいました♫
みんなありがとう!!
アーティスト専用バーがあって、出演者は1杯無料!
ステージ脇にVanhallaステージに出演するアーティストのタイムテーブル。
テシメリコも発見!
テシメリ、、、カ!!笑
適当やなー!!
聞いてくれた皆さんありがとうございました^^
また7月のSunflower fesで今度はBelfastに戻ってきます!
それまでアディオス、アイルランド!!!
こゆき@UK
The band consists of;
Koyuki Yamato (Vocals & keyboard)
So Kashima (Drums)
Takumu Suka (Sax, flute & guitar)
Yuriko Tachibana (French horn)
We've been playing gigs three times a month on average,
and now we're playing more and more frequently. Our sound combines a cinematic atmosphere with a catchy pop feel, and includes elements of postclassical and electronica. Using a unique combination of modern and classical instruments to express our particular view of the world, we put everything we have into our performance for you!
【Career】
2010 onwards
7 performances at Design Festa, the largest art event in Asia, held biannually in Tokyo.
2012
4th place in Studio NODE's song competition.
Released 1st album "Landscape" on CD, iTunes and Amazon.
Album art by Rikako Yamakawa.
2013
Radio broadcast in New York.
2nd place in the "LIVE IN WORLD" competition in Yamagata.
Featured in art magazine "MeguRu".
Released 1st music video on YouTube.
French website 'kochipan' post an interview with us.
2014
Featured in music magazin "Chikashitsu-no-Kaibutsu2"
2nd place in the "Battle de egg" competition in Kobe.
An activity place is moved to Europe.
Tecimerico
2009年結成、東京を中心に活動中。ジャンルはクラシカルポストロック。クラシックの楽器を使ってロックを表現している。
LIVEでは演奏に映像作品を投影し、まるで映画を見ているような、大自然の中で音楽を聞いているような、見ている者を知らぬ間にその独自の世界の中へ惹きこんでいく。
Lafcadio Hearn Gardens Tramore
set to officially open on June 26th.
~小泉八雲庭園、アイルランド ウォーターフォード県トラモア6/26開園~
ラフカディオ・ハーンを祝う
アイリッシュマン日記~多彩な天才文学者兼旅人について~
それはギリシャ・レフカダのイオニア諸島でのロマンスに相応しい素晴らしい夜となった。つい先日、壮大な日の入り後の青く美しい珊瑚を臨む野外オープンシアターにおいて、1,000名を超える人々が集まり、日本・熊本発の一流指人形劇による魔法のような公演を満喫したのだ。
演目は雪女。古代日本の昔話で、ラフカディオ・ハーン著のシリーズ作・怪談においてリメイクされたものだ。ラフカディオ・ハーンはギリシャ生まれで放浪のアングロ・アイルランド人であり、米国とフランス領西インド諸島においてジャーナリスト兼作家として名を成した。その後日本にて西側一番の通訳者となり、1904年に死去した。
雪女は、ある一連の市民的・芸術的・学問的イベントの一環だった。それは国際シンポジウム「オープンマインド・オブ・ラフカディオ・ハーン:西洋から東洋へ」のことで、ハーン生誕160周年を記念するため、アテネ、レフカダ、コルフ島で開催された。
2日間にわたるシンポジウムのメインは、日本、ギリシャ、米国、マルティニーク島から招待されたハーン作品の作家・読者による研究論文やプレゼンテーションの講演だ。
アイルランドからは2人が講演者に含まれていた。ハーンの伝記作家・ポール・マリーと、本日の日記作家(つまりジョン・モーラン本人)だ。
作家としてのハーンのキャリアは、米国の新聞・雑誌向けの膨大な量のレポート、関連記事、エッセイにおける革新的ジャーナリズムが挙げられる。彼はこの分野における、19世紀後期の文学的物語体のパイオニアであり、20世紀中期の新ジャーナリズムの先駆けであった。
彼の革新的で多岐にわたる仕事は、アフリカ系アメリカン民俗学・民族音楽、クレオール料理、世界文化、宗教、犯罪、旅行記、マンガ、イラスト、怪談にまで及ぶ。それから、モーパッサンやフロベールなどフランスを代表する作家たちの翻訳書、プロト魔術的リアリズムについて1冊、小説が2冊、最後に日本文化・民俗学について14冊を手掛けた。
ハーンは、彼の父・チャールズ・ブッシュ・ハーンの生誕地にちなみ、パトリックと名付けられた。チャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド出身の英国軍・軍医少佐だった(当時英国軍はイオニア諸島を占領)。また、ラフカディオはハーンが生まれた土地・レフカダ島に由来し、イオニア人だった母・ローザ・カシマティに敬意を表している。
ハーンが生まれる前、父親は西インド諸島へ配置となり、1852年にローザは2歳のパトリック・ラフカディオを連れ、ダブリンへと移り住んだ。
両親の離婚後、彼はラスマインズ(ダブリン市南部)にある大叔母に育てられた。
パトリック・ラフカディオは幼い頃に別れたギリシャ・イオニア島の母親のことをいつまでも忘れることはなかった。父親はダブリンでの自身のバックグラウンドから来たある女のためにローザを捨てた。ローザはラフカディオにとって、他人や異国人の象徴となっていく、彼の作品の一つ「夏の日の夢」においては美化された喪失感となった。ハーンはシンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニーク島や日本全国のあちこちを旅し、すべての土地について旅行記を書いた。ローザはそこで描かれたエキゾチックな異国人たち全てのモデルとなった。
日本において、ハーンは自身の名を妻のものに改名し、小泉八雲としてその生涯を閉じた。八雲の名は今日においても日本人の記憶に刻まれている。
レフカダ島でのイベント出席者は主にハーンの曾孫・小泉凡と妻の祥子、ギリシャ美術商のタキス・エフスタチオ、アテネにあるアメリカンカレッジ・オブ・ギリシャ、地元の市民関係者などによって組織されており、旅行者、教育機関、学生、外交官、ジャーナリスト、ニュージーランド・オーストラリアからの勇猛なハーンの身内が含まれる。
アテネのアイルランド大使館は、シンポジウム支援団体の一員であり、至る所でよく目立っていた。
町の住民にとって、おそらくシンポジウムの主要イベントはラフカディオ・ハーン・ヒストリカルセンターでのオープニングだろう。センターのオープニングはアイルランドで過去最大のハーンイベントの直後に来た。アイルランドでは、6月27日からウォーターフォード・トラモアに新たに2.5エーカーのラフカディオ・ハーン・ガーデンズの建設が始まった。来年春の完成時には、ガーデンは旅行者の主要な文化的アトラクションとなるだけでなく、地元の憩いの場や有望な教育施設ともなるだろう。
同時にダブリンでは、注目すべき話題としてハーンの展示会がリトル・ミュージアム・ダブリンで来年開催される。
やっとのことでハーンを世に知らしめる、ハーンを支持するため、ハーンと交信した都市は、ニューオーリンズ、ニューヨーク、東京、松江、ダラム、アテネ、レフカダ、そしてトラモアである。ダブリンの展示会が開催されれば、パトリック・ラフカディオ・ハーンのゴースト、壮大な旅人、世界の先駆的住民、長らく行方知らずだったアイルランドの文学放浪者が、ついに帰ってくることとなる。
John Moran:The Irish Times Aug 18, 2014,
An Irishman’s Diary about a protean literary genius and traveller
It was a marvellous night for a romance on the Ionian island of Lefkada in Greece recently as more than 1,000 people gathered after a glorious sunset in the outdoor Open Theatre looking out onto a beautiful blue lagoon to savour a magical performance by a leading puppet theatre from Kumamoto in Japan.
The play, Yuki-Onna (snow woman), is an ancient Japanese folk tale as reworked in his collection Kwaidan by Lafcadio Hearn, the Greek-born wandering Anglo-Irishman who made his name as a journalist and writer in the United States and the French West Indies before becoming the West’s foremost interpreter of Japan, until his death there in 1904.
The show was part of a series of events, civic, artistic and academic, held in Athens, Lefkada and Corfu as part of an international symposium, The Open Mind of Lafcadio Hearn: his spirit from West to East, to mark the 160th anniversary of the writer’s birth. The main symposium focus over two days was the delivery of papers and presentations by invited Hearn writers and readers from Japan, Greece, the USand Martinique. Included were two from Ireland, Hearn biographer Paul Murray and today’s diarist.
Hearn’s career as a writer included ground-breaking journalism in an enormous volume of reports, feature articles and essays for US newspapers and magazines in which he pioneered the literary narrative style of the late 19th century and anticipated the new journalism of the mid-20th. His enormous and eclectic oeuvre spans African-American folklore and music, literary criticism, Creole cuisine, world cultures, religions, crime, travel writing, cartoons, illustrations and ghost stories; then there are his translations of the leading French writers like Maupassant and Flaubert, a proto-magic realism book, two novels, and finally 14 books on Japanese culture and folklore.
Hearn was named Patrick after the country of his father, Charles Bush Hearn, an Irish surgeon-major in the British army (then in occupation of the Ionian Islands) and Lafcadio after Lefkada, the island on which he was born and in honour of his Ionian mother, Rosa Cassimati. Before his birth, his father was posted to the West Indies, and in 1852 Rosa brought two-year-old Patrick Lafcadio to live in Dublin. When his parents’ marriage ended, he was raised by a grand-aunt in Rathmines.
Patrick Lafcadio would forever remember the Greek island mother who was lost to him at an early age when his father dropped her for a woman from his own background in Dublin. Rosa would become for Lafcadio the personification of the other and the outsider; a loss idealised in his fragment The Dream of a Summer Day. She became the mother of all the exotic outsiders he wrote about everywhere he travelled; in Cincinnati, New Orleans, Martinique and many parts of Japan, where he changed his name to that of his wife, to end his days as Koizumi Yakumo, by which name he is still well remembered there today.
Attendees at the events on Lefkada – which were mainly organised by Hearn’s great-grandson, Bon Koizumi, and his wife, Shoko, Greek art dealer Takis Efstathiou and the American College of Greece in Athens, plus local civic officials – included tourists, academics, students, diplomats, journalists and doughty Hearn relatives from New Zealand and Australia. The Irish embassy in Athens was among the parties that supported the symposium and was well represented throughout.
For townspeople, perhaps the key symposium event was the opening of the Lafcadio Hearn Historical Centre. The opening of the centre came soon after the most significant ever Hearn event in Ireland, when on June 27th work began on the new 2.5-acre Lafcadio Hearn Gardens in Tramore, Co Waterford. When completed next spring, the gardens will become not only a key cultural attraction for tourists, but also a fine local amenityand a promising educational facility.
Meanwhile in Dublin, there is considerable excitement that a Hearn exhibition will go ahead in the Little Museum of Dublin next year, at long last putting on on the map the city that raised him, to stand with with New Orleans, New York, Tokyo, Matsue, Durham, Athens, Lefkada and Tramore.
Should a Dublin exhibition take place, the ghost of Patrick Lafcadio Hearn, magnificent traveller, pioneering citizen of the world and Ireland’s long-lost literary fugitive, will finally be coming home.
Lafcadio Hearn
(1850-1904)
The Embassy of Ireland in Tokyo
The
Embassy of Ireland
in Tokyo
promotes the achievement of Lafcadio Hearn as one of the most important
historical connections between Ireland
and Japan .
A special library devoted to books by and about Hearn was opened at the Embassy
in 1987. The Embassy is also closely
involved with many Hearn –related e events in Japan including links with
Matsue in Shimane Prefecture and
Kumamoto in Kyushu, where Hearn lived.
Lafcadio
Hearn is one of the most famous foreigners ever to have lived in Japan .
He was born
in 1850 on the island of Lefkas ,
Greece (hence
his name), the son of an Irish father who was a surgeon in the British army
stationed on the island, and of a Greek mother. When a very young child, he was
brought to Dublin
and raised by an aunt at houses in Leinster
Square and Upper Leeson Street . Later he attended
school in Durham , England and at the age of 19
emigrated to the United
States . There, in Cincinnati and New Orleans , he became a journalist, a
translator and a writer with a taste for the exotic and the macabre.
In 1890,
when he was almost forty, he travelled to Japan on a temporary assignment for
Harpers magazine.
His arrival
at Yokohama on 4th April 1890
was very much a part of the wider influx of westerners into Japan at that
time as a result of the opening of Japan to the west following the
collapse of the Tokugawa Shogunate and the restoration of the Emperor in 1868.
Irish
people, sometimes within the framework of Britain ’s exchanges with Japan and some-times
those of the United States ,
were inevitably involved in the process of “westernization” following the Meiji
restoration. Prior to 1868 there is no evidence of significant Irish
involvement in Japan. Under the Tokugawa Shogunate, foreigners (with limited
exceptions) were excluded from Japan .
Lafcadio
Hearn spent the remaining 14 years of his life in Japan; married a Japanese
woman; took out Japanese citizenship under the name Koizumi Yakumo and, from a
relatively humble position as schoolmaster in Matsue in western Japan, he
became Professor of English Literature at the Imperial University of Tokyo.
Hearn is
largely remembered today because he wrote twelve books on Japan , many of
which are still in print. The first and perhaps the most famous, Glimpses of Unfamiliar Japan, was
published in 1894. It combined travel sketches of his life in western Japan with
studies of its culture and religion in the early 1890s. His last book, Japan An Attempt at Interpretation, was
published posthumously in 1905. This was a historical analysis of the
transformation of Japan
from a feudal society to the rapidly-modernizing country in which Hearn
actually lived. As in all Hearn’s books, a note of regret is persistently
sounded: regret for the loss of the customs and practices of “Old Japan”, the Japan which
Hearn felt was being undermined by the processes of modernization during the
Meiji period.
It is
perhaps as a result of Hearn’s sympathy and understanding for this “Old Japan”
that his work is still so widely admired. Certainly, his contribution to
Western knowledge of Japan
and Japanese culture has been very significant.
While
interest in Hearn’s work waned during the Second World War, interest resurfaced
in the early 1960’s with the publication of new biographies and critical
studies. A new revival has taken place since 1990 which marked the centenary of
his arrival in Japan .
Many new studies of his life and work have been published in the past ten years
in both English and Japanese. These have included books about his Irish
background, a relatively new area of Hearn scholarship.
Photo Special Thanks ©Brendan St John/Tramore, Ireland