ページ

2013年3月28日木曜日

【Ireland Live Report2013 Spring】☆Discover Ireland☆✈✈✈愛蘭土に到着しました✈✈✈☆更新今しばらくお待ち下さいませ☆









日本の皆様、こんにちわ。
アイルランド交通・観光・スポーツ大臣のレオ・バラッドゥカーです。

今回、セントパトリックスデーにあわせ初めて日本を訪ねました。
4日間の公務滞在にて、東京や大阪を訪問させていただきます。
日本は人々が親切、清潔感に富みテクノロジーの最先端を進んでいるという印象があります。

さて、私はアイルランドの観光大臣を務めているのですが日本のマーケットは私たちアイルランドにとっても大変重要な存在です。
ご存知の通りアイルランドは観光立国であり年間600万人から700万人のツーリストがここエメラルドの島にお越しいただきます。これはアイルランドほぼ総人口の2倍にも相当しアイルランド経済にとって大変大きなインパクトを持つものです。

そのなかでも年々日本からアイルランドを訪れて下さるツーリストは増えており、今年は2万名以上もの日本人観光客が訪愛の予定です。

セントパトリックスデーはアイルランド人にとって特別なイベント、欧州全土そしてアメリカに渡ったアイリッシュ移民も然り、音楽を奏で皆で祝う大切な一日です。
そう、誰でも気軽に楽しめる一日であり、世界のお城や名所を緑に装飾し盛大に祝います。

アイルランドには魅力あるスポットが多く点在します。
本年はギャザリングイヤーということもあって、是非アイルランドにお越し下さることを祈っています。

INJ田面氏に「アイルランドでお薦めのスポットはありますか」と、聞かれましたが・・・非常に難しい(笑)
勿論、私のホームグラウンドである首都ダブリンも歴史があり、素敵な場所が沢山あります。

例えば、ダイナミックな景観に富み、ワイルドなアイリッシュウエストコーストのように、アイルランドには、その地域地域に深く根差した独特の伝統ある文化があります。好奇心を持っていただければ、アイルランドのどこもが、興味深く楽しいスポットなのでしょう。

今回の滞在で深まるアイルランドと日本の交流、企業間の貿易もそうですが多くの方々にお会いし貴重な時間を過ごすこととなります。
両国の関係がよりよくなるよう心から願っています。

観光にとどまらず、語学を学びにくる機会・アートを愉しむ機会・多くの魅力がアイルランドには存在します。

エンジョイアイルランドどうぞ緑の国アイルランドにお越しください。
アイルランドであなただけの貴重な体験を~。



2013315日:収録 インタビュアー&構成/文責 INJ東京 田面 徹 )



✈まもなく現地アイルランドより春のライブリポートを掲載していく予定です。更新今しばらくお待ちくださいませ✈














































 





















































































アイルランド

 Éire






(駐日アイルランド大使館HPより引用抜粋)
(Source:Embassy of Ireland)




アイルランド国家

国の名称
アイルランド憲法は、国の名称を「エーレ」(Éire)、英語で「アイルランド」(Ireland)と規定しています。

アイルランド島
地理的なアイルランド島は、26の県から成る独立主権国家であるアイルランドと、島の東北部に位置する北アイルランドの6つの県から構成されています。北アイルランドは、聖金曜日協定(Good Friday Agreement)の取り決めに従って設立された連立型の行政府と議会によって統治されています。

言語


アイルランド憲法第8条は、次のように規定しています。


 1  アイルランド語を国の言語として第1公用語とする。

 2  英語を第2公用語として認める。

国旗
アイルランドの国旗は、緑・白・オレンジ色の三色旗です。
紋章
竪琴(アイリッシュ・ハープ)は、中世以来、アイルランドの正式な象徴として、国の紋章となっており、アイルランドの内外で政府、政府機関、およびその代表者によって使用されています。また、この竪琴の紋章は、アイルランド大統領の公印に彫り込まれており、アイルランドのユーロ硬貨すべての表面にも描かれています。
国歌
アイルランド国歌は、「兵士の歌」(Amhrán na bhFiann)です。
国家の祝日(ナショナルデー)
3月17日はセント・パトリックス・デー(Saint Patrick’s Day)で、国家の祝日です。聖パトリックはアイルランドにキリスト教を伝えたときにシャムロック(クローバーに似た三つ葉の植物)の葉を使用したという伝承があり、このことから後にシャムロックはアイルランドの象徴となっています。
政府


アイルランドは議会制民主主義国家です。アイルランドの法律は、コモン・ロー(慣習法)と、憲法に基づいてアイルランド議会(Oireachtas)が制定した法令に基づいています。さらに、欧州連合が制定した規制と指令も、アイルランド国内で法的効力を持っています。アイルランド憲法は、国家の政治形態を定め、大統領、アイルランド議会の上下院、および政府の権限と職務を規定しています。また、司法制度と裁判所の構造と権限を定め、国民の基本的な権利の大枠を提示しています。権利の規定は、人権、家族、教育、私有財産、そして宗教という5つの表題に大別されています。




大統領は、国家元首であり、国民の直接投票によって選出されます。



政府機関として15の省が設置されており、各省の長である1名の大臣が指揮を執ります。この大臣の集合体として、アイルランド政府が組織されます。行政は、政府によって、あるいは政府の権限に基づいて行使され、政府は下院(Dáil)に対して責任を負います。政府の首長はティーショック(首相、Taoiseach)で、トーニシュタ(Tánaiste)と呼ばれる副首相が置かれています。



国会は、下院(国民議会、Dail Éireann)と上院(Seanad Éireann)の二院制です。下院議員はTeachtaí Dála(TD)と呼ばれ、定数は166議席です。下院議員は、比例代表制の普通選挙によって選出されます。議員選挙は、少なくとも5年に1回の頻度で行われます。2011年の総選挙の後、下院を構成する主な政党は、フィネ・ゲール党(Fine Gael、統一アイルランド党)、労働党、共和党(Fianna Fáil)、そしてシン・フェイン党(Sinn Féin)となっています。



上院(Seanad)は60議席で、そのうちの11議席は首相によって指名されます。残る49名は、いくつかの職業別委員会から大学卒業者によって選出されます。上院は、新たな法案や改正案を提出できますが(ただし、財政法案を除く)、下院はそのような法案や改正案を拒否する権限を持っています。



アイルランド政府: www.irlgov.ie


アイルランド大統領: www.president.ie


統一アイルランド党/フィネ・ゲール(Fine Gael): www.finegael.ie

労働党: www.labour.ie

共和党(Fianna Fáil): www.fiannafail.ie

シン・フェイン党(Sinn Féin): www.sinnfein.ie

アイルランド政府ニュース・サービス:www.merrionstreet.ie

地方行政


地方行政は114の地方自治体によって施行されており、現在、制度改革が進められています。




地方自治体によって提供されている行政サービスとしては、住宅供給と建設、道路交通と安全、上下水道、開発の促進と規制、環境保護と廃棄物管理、公共施設(レクリエーションと文化)、教育、保健、福祉、およびその他のサービスがあります。



地方行政の財源は、中央政府からの交付金と地方財源から成り立っています。後者としては、たとえば、自動車税、商業用不動産に対する地方税、そして廃棄物処理料や賃貸料などの地方公共料金があります。



環境・地域社会・地方自治省(Department of the Environment, Community and Local Government):www.environ.ie


司法制度


アイルランドの法律は、コモン・ローに基づいており、それに後代に制定された法令と1937年憲法による修正が加えられています。裁判は、アイルランド憲法に従って、法律によって設置された公開の法廷で実施されます。裁判官は、大統領が政府の助言を得て任命します。




法務・平等省(Department of Justice and Equality): www.justice.ie

裁判所: www.courts.ie

検察局長官: www.dppireland.ie

検事総長: www.attorneygeneral.ie


警察と防衛


アイルランド警察(An Garda Síochána)は、1922年に設置されました。警察任務の全体的な指令、管理、統制は、法務・平等大臣(Minister for Justice and Equality)によって定められた規則に従って実施され、政府によって任命された警察長官に委ねられています。




アイルランド警察は、特殊部隊を除き武器を携行しません。アイルランド警察は、1989年以来、全世界の多数の国連派遣団に参加しています。また、旧ユーゴスラビア、マケドニア、東スラボニアでは、欧州連合の旗の下で任務を遂行したほか、南アフリカとパレスチナでも選挙監視員を務めました。



常備防衛軍は、陸・海・空の3つの正規軍から構成されており、国防省の指揮下で任務を遂行しています。また、国防省は民間防衛政策の計画・策定・調整全般も担っています。兵役制度は志願制です。常備防衛軍は平和維持活動の実績が豊富であり、1958年以来、国連の委任の下、国連、EU、NATOの主導による平和維持活動に全世界で従事しています。



法務・平等省(Department of Justice and Equality): www.justice.ie

アイルランド警察(Garda Síochána): www.garda.ie

警察オンブズマン(Garda Ombudsman) www.gardaombudsman.ie

国防省: www.defence.ie

アイルランド防衛軍: www.military.ie








アイルランドの歴史

アイルランドにはおよそ7,000年前から人が住み着くようになり、度重なる襲撃や侵略を受けた結果、さまざまな民族と伝統が混じり合うようになりました。紀元前6世紀までに、侵入してきたケルト人がアイルランド島の文化と言語を統一しました。5世紀にはキリスト教が伝来し、これは伝統的に聖パトリックの功績であると言われています。9世紀から10世紀にかけてのバイキングの襲来は、交易の発達を促し、特に、ダブリン、ウォーターフォード、コークといった都市を繁栄させました。
12世紀になると、以前からイングランドとウェールズに定住していたノルマン人が侵入してくるようになりました。ノルマン人はたちまちアイルランドの大半を制圧し、その後、そうした地域はイングランド王の政治権力の下に置かれました。
イングランド王によるアイルランドの統治に対する一連の反乱が鎮圧された後、1603年に、ゲールの最後の砦であったアルスターが陥落してイングランドの支配下に置かれました。その後、アルスターは植民地となって、多くのイングランド人やスコットランド人が移住してくるようになり、この地域の宗教的および政治的な情勢に長く影響を及ぼしました。
17世紀には再び抗争が続きましたが、この覇権をめぐる攻防もボイン川の戦い(1690年)とオーグリムの戦い(1691年)でついに決着がつきました。敗北したアイルランドの指導者とその追随者の多く(「ワイルドギース」と呼ばれた人々)は、アイルランドを離れ、欧州大陸で軍人、聖職者、商人として身を立てましたが、そうした人々の遺産は今なお各地で目にすることができます。英国国教会のプロテスタント勢力は政治権力と土地所有権を独占し、カトリックを差別する刑法を制定しました。



18世紀




18世紀になると、アイルランドの経済は目覚ましい発展を遂げました。リネン産業がアルスターを中心に栄え、羊毛、牛肉、バター、豚肉もアイルランドの重要な輸出品となりました。プロテスタントの支配勢力は自らをアイルランド国家と名乗りはじめ、独特の活発な議会制度の伝統を発達させました。
1760年代から英国と北米植民地の間で対立が激化するのに伴って、急進的な愛国主義の伝統が芽生え、最終的に、フランス革命に刺激される形で、ユナイテッド・アイリッシュメンが結成されました。しかし、1798年に、ユナイテッド・アイリッシュメンが先導する反乱は鎮圧され、1800年の連合法(アイルランド併合法)によって、英国とアイルランドの間に完全な連合議会が発足しました。
19世紀の前半には、カトリック解放運動が展開されました。1829年には、ダニエル・オコンネルに率いられて、カトリック教徒が議会への参政権を獲得しています。その後も、英国・アイルランド連合王国の改革・解体に向けた努力が重ねられました。
1840年代後半に、ジャガイモの大規模な不作が数年続いた結果、未曾有の大飢饉が発生しました。100万人が飢えや疫病で死亡し、さらに100万人がアイルランドを去ることを強いられました。1856年までに、人口は800万人から600万人未満へと4分の1以上も減少し、その後も、国外移住がアイルランド社会の一般的風潮になって、人口はさらに減少しました。この大飢饉は、きわめて広範にわたる政治的影響をもたらし、自治への要求がアイルランドの有権者の間に高まり、小作人が借地を購入する権利が強化されることになりました。
しかし、自治(「ホーム・ルール」)の問題は未解決でした。1880年代に、チャールズ・スチュワート・パーネルに率いられて、ウェストミンスター議会のアイルランド議会党が、アイルランド問題を英国政治の表舞台に引き上げました。1886年には、W.E.グラッドストン率いる英国の自由党が、制限付きながらアイルランド自治の支持に回りました。
このようなアイルランド自治実現の見通しは、アイルランドのユニオニスト(連合王国支持者)を刺激しました。ユニオニストは主としてプロテスタントであり、アルスター地方で過半数をわずかに上回る勢力でした。ユニオニストは、イングランド国内の同盟者、すなわち、アイルランド自治が大英帝国の崩壊につながることを恐れる勢力とともに、アイルランド自治の承認を阻止する運動を展開しました。それでもなお、1914年、アイルランド自治法(Home Rule Bill)がついに成立しました。しかし、第一次世界大戦の勃発により、この法律は施行されませんでした。







独立への歩み




1916年、ダブリンで共和国樹立が宣言され、武装蜂起(イースター蜂起)が決行されました。この武力行動は、初期の段階では一般市民から大きな支持を得ることができず、鎮圧されました。しかし、蜂起指導者の処刑に対し市民は強い反感を抱きました。また、第一次大戦中アイルランドに徴兵制が導入されたことへ反発が起きました。これらを追い風として、イースター蜂起の支持層は、1918年の総選挙で、アイルランド議会党から政権を奪い取りました。

選挙に勝利したシン・フェイン党(Sinn Féin = 「我ら自身」の意)は最初の議会(ドール、Dáil)を開き、独立戦争が勃発しました。1921年に英国・アイルランド条約が結ばれる時までに、アルスター北東部の6つの県は、ユニオニストが多数派として約3分の2を占めており、すでに北アイルランドという領土を形成していました。この英国・アイルランド条約の結果、残る26県によって、英連邦内の自治領という位置付けで、アイルランド自由国が建国されました。しかし、この自由国の誕生の後、この条約を実効性のある自治政府を認めるものとして受け入れる勢力と、あくまでも共和国としての完全独立を主張する勢力の間で、短い内戦が発生しました。この内戦は、アイルランドに党派的な分断をもたらし、その後、何十年にもわたって人々の政治的立場を規定しました。
新国家の最初の政府を率いたのは、ゲール同盟(Cumann na nGaedheal、後のフィネ・ゲール党)のW・T・コスグレーヴでした。1930年代からは、1926年にエイモン・デ・ヴァレラが結成したフィアナ・フォイル党(Fianna Fáil:「運命の戦士」の意、アイルランド共和党)が数十年間、政権を掌握しました。
独立を達成した1922年以降、20年の間に、アイルランドの国家制度は整備され、政治的な安定も確立されました。そして、1937年のアイルランド憲法と1948年のアイルランド共和国法によって、アイルランドと英国の間に残っていた最後の公式な結び付きが断たれました。第二次世界大戦中も、アイルランドは完全な中立を維持しています。
アイルランドは、1955年に国際連合(UN)への加盟が認められ、1973年には欧州経済共同体(現在の欧州連合(EU))にも加盟しました。新たな経済発展政策が、短期間で大規模な経済成長をもたらしました。







国立公文書館:www.nationalarchives.ie

アイルランド外交公文書館:www.difp.ie

History Ireland:www.historyireland.com







アイルランドの文化
アイルランドは、過去にも現在も豊かな文化があります。初期のアイルランド詩人によって守られてきた民間伝承によって、多彩な伝説や歴史物語が残されています。また、近代の作家はこうした物語を創作に活かし、それぞれの作品の魅力を高めています。
アイルランド語
19世紀初めまでは、大半の住民がアイルランド語を話していましたが、1891年には大多数が英語のみを話すようになっていました。アイルランド語はケルト語派に属し、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語、ブルトン語と近縁関係にあります。独立以来、アイルランド政府は、アイルランド語の使用を積極的に奨励しており、アイルランド語が第1公用語、英語が第2公用語となっています。
最新の調査によると、成人の全国民の42%がアイルランド語の知識があると回答しています。今日、アイルランド語は、主として西部沿岸に位置する、ゲールタクト(Gaeltacht)と呼ばれる地域で広く話されています。芸術・文化遺産・ゲールタクト省(Department of Arts, Heritage and the Gaeltacht)は、ゲールタクト開発公社(Údarás na Gaeltachta)を通じて、ゲールタクトの文化的・社会的・経済的な繁栄を推進する任務を負っています。アイルランド語庁(Foras na Gaeilge)は、アイルランド島全域でアイルランド語を日常語として使用するように推進・奨励することを任務としています。アイルランド語は、初等・中等教育の主要科目になっており、アイルランド語だけを使用して教育を行う学校(Gaelscoileanna)も増加しています。また、アイルランド語の全国ラジオ放送のラジオ・ナ・ゲールタクタ(Raidió na Gaeltachta)とアイルランド語テレビ放送(TG4)があります。2007年1月1日、アイルランド語は欧州連合(EU)における23番目の公式言語になりました。 

アイルランド文学
アイルランドの作家は、長年にわたって、アイルランド語と英語の両方で、世界文学に大きく貢献してきました。アイルランド語で書かれた文学作品は6世紀にまで遡ることができます。17世紀にゲール人による統治に終止符が打たれ、詩人をパトロンが後援する伝統も廃れると、アイルランドの作家たちはゲール文化の記録を書き残し始めました。18世紀から19世紀にかけても、聖職者、教師、詩人たちがアイルランド語で文献や作品を書き続けました。この時期の最もよく知られた詩人の1人がブライアン・メリマン(1747-1805)で、その作品である「Cúirt an Mheán Oíche」(Midnight Court、真夜中の法廷)には多くの翻訳があります。20世紀になると、作家パトリック・ピアース(1879-1916)やポーリック・オコネラ(1882-1928)がヨーロッパの影響を受けたアイルランド文学を生み出しました。現代の優れた作家や詩人としては、リーアム・オフラハティ(1897-1984)、マレード・ニ・グローダ(1896-1971)、マーティン・オカイン(1906-70)、マーティン・オディアラン(1910-88)、ショーン・オリアドン(1916-77)、マイケル・ハートネット(1941-99)、クリストア・オフリン(1927-)、ゲイブリエル・ローゼンストック(1949-)、リーアム・オムアハラ(1950-)、カハル・オシャーキー(1956-)、ヌアラ・ニ・ゴーノル(1952-)らが挙げられます。
英語で書かれた文学作品では、風刺作家のジョナサン・スウィフト(1667-1745)によって、「ガリバー旅行記」(1726)が書かれました。オスカー・ワイルド(1854-1900)の戯曲、散文、詩歌の作品は、全世界で今なお上演され、愛読されつづけています。戯曲作家・小説家であるジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)と、詩人で劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)は、ノーベル文学賞を受賞しました。イェイツの作品は、アイルランド文学界の近代文芸復興(ルネッサンス)の先駆けとなりました。ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)は、先駆的なモダニズム小説「ユリシーズ」(1922)を書き、この作品は今までに書かれた最も偉大な小説の1つであると広く認められています。ジョイスは、風刺作家でアイルランド語の作品も執筆したブライアン・オノラン(フラン・オブライエン)(1911-66)の作品に影響を与えました。ノーベル賞受賞者であるサミュエル・ベケット(1906-89)は、ミニマリズムの手法で創作し、フランス語でも多くの作品を残しました。ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」(1953)は20世紀の不条理劇の古典と見なされています。
イェイツの後に現れた詩人としては、異色の詩人、パトリック・カヴァナ(1904-67)らがいます。農村リアリズムの詩人としてのカヴァナの作品は、シェイマス・ヒーニー(1939-)の創作に影響を与え、詩に救済の力を認めるヒー二ーのビジョンは、1995年のノーベル文学賞受賞につながりました。
アイルランドの小説は、現在も高い評価を受けており、近年では、アン・エンライト(2007)、ジョン・バンヴィル(2005)、ロディ・ドイル(1993)といったアイルランド人作家がブッカー賞(The Man Booker Prize)を受賞しています。この賞の最終選考に残った作家としては、コルム・トビーン(1999年、2004年、2009年)、セバスチャン・バリー(2008年)、エマ・ドノヒュー(2010年)がいます。コラム・マッキャンの小説、「Let the Great World Spin」は、2009年の全米図書賞(National Book Award)を受賞しました。
アビー、ドルイド、ゲートといったアイルランドの劇団は、定期的に海外公演を行っており、その一方で、アイルランドを訪れる外国劇団の作品の紹介にも努めています。
美術
アイルランド最古の美術は、巨大な石碑に彫られた彫刻で、紀元前3500年まで遡ります。古代ケルト美術は、「ダロウの書」や「ケルズの書」といった福音書写本でその頂点に達しました。9世紀以降、アイルランド美術は、バイキング、ロマネスク、ゴシックなどの影響を吸収し、彫刻が豊かに施された石造りの十字架(ハイクロス)などを生み出しました。
17世紀半ばからは、当代の大規模な公共建築物の建造に伴って、装飾芸術が盛んになりました。たとえば、金細工、石膏作品、ガラスなどです。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アイルランドの画家はフランス印象派を新しい様式として模倣しました。その例としては、ウィリアム・リーチ(1881-1968)、ウォルター・オズボーン(1859-1903)、ジョン・ラベリー(1856-1941)、ロデリック・オコナー(1860-1940)らが挙げられます。印象派から表現主義に転向したジャックB.イェイツ(1871-1957)は、兄である詩人ウィリアム・バトラー・イェイツと同様に、時代を大きく越えており、同時代画家の中で突出した存在となっています。


そのほか、抽象的な表現主義的様式で制作した画家としては、ルイ・ル・ブロッキー、ノラ・マクギネス(1901-1980)、パトリック・スコットなどがいました。20世紀後半には、強烈な新しい表現主義運動が登場し、ブライアン・マグワイアー、エスネ・ジョーダン、マイケル・マルカヒー、マイケル・カレン、ドロシー・クロス、アリス・マハらが活躍しています。




19世紀の彫刻は、英雄像や記念碑が中心となっていました。その代表例としては、ダブリンのトリニティ・カレッジにあるジョン・ヘンリー・フォーリー(1819-74)作のオリバー・ゴールドスミス像やエドマンド・バーク像があります。この伝統は20世紀にも受け継がれ、オシーン・ケリー(1915-81)、シェイマス・マーフィー(1907-74)、ヒラリー・へロン(1923-77)などの彫刻家が、新しい鋳型技術を先駆けて使用し、アイルランド独自の構想に基づく彫刻を追求した作品を残しました。現代の彫刻は、さらに抽象化され、軽妙さや機知を増しています。こうした特徴は、エドワード・ディレイニー(1930-2009)、ジョン・ビーハン、マイケル・ウォレン、アイリス・オコンネル、キャシー・プレンダガスト、アイリーン・マクドノーらの多彩な作品に見て取ることができます。



運輸・観光・スポーツ省(Department of Transport, Tourism and Sport):www.dttas.ie

芸術・文化遺産・ゲールタクト省(Department of Arts, Heritage and the Gaeltacht):www.ahg.gov.ie

アイルランド文化庁(Culture Ireland):www.cultureireland.gov.ie

ゲールタクト開発公社(Údarás na Gaeltachta):www.udaras.ie

アーツ・カウンシル:www.artscouncil.ie

クラフツ・カウンシル・オブ・アイルランド:www.ccoi.ie

Ireland Literature Exchange:www.irelandliterature.com

建築
アイルランドに現存する最古の建築物は、巨石墓(B.C.3500~B.C.2000)です。巨石墓にはさまざまな形態がありますが、その例としては、3つ以上の立石(スタンディング・ストーン)が1~2個の冠石(キャップ・ストーン)を支えているドルメンや、ニューグレンジのような通路古墳(パッセージグレーブ)があります。石器時代の技術は12世紀まで存続し、今日でも、ケリー県のスケリッグ・マイケルの礼拝堂やガララス礼拝堂など、初期の教会や修道院の蜂の巣型の建造物にその影響を見ることができます。鉄器時代(B.C.500以後)には巨大な環状砦が出現し、アラン諸島のドゥーン・エンガスのように丘の上に建造されました。
円塔(ラウンドタワー)はアイルランドに特有の建築物で、国内の各地に見られます。10世紀から12世紀に修道院の敷地に建てられ、最も有名なものはオファリー県クロンマクノイズにあります。高さが30メートルを超える円塔も少なくありません。その主目的は鐘楼として使用することであったと思われますが、入口が高い場所に設けられていることから、外敵からの防御としても使用された可能性があります。
その後、複雑で装飾的な彫刻を施した石造のロマネスク建築様式が、アイルランドの教会建築に影響を及ぼしました。その代表例は、ティペラリー県ロック・オブ・キャシェルにそびえ立つコーマック礼拝堂とゴールウェイ県のクロンファート大聖堂です。アングロ・ノルマン人の到来によって、初期ゴシック建築様式の導入が始まりました。ダブリンの2つの大聖堂、クライストチャーチ大聖堂と聖パトリック大聖堂が、その最も有名な例です。ノルマン人は、大きな方形の本塔(城郭の本丸)を備えた大規模な城砦を建造しました。その多くは、ミース県のトリム城やアントリム県のキャリクファーガス城のように、今なお威容を誇っています。ティペラリー県ケアにある15世紀の城は、現存する封建時代の要塞として最も立派なものです。
古典様式の建築は、17世紀後半から始まります。18世紀に入る頃までは、パラディオ式の邸宅がイタリア式宮殿(パラッツォ)と覇を競っていましたが、18世紀末には、こうした様式が衰退して新古典派が主流となり、ダブリンはジョージア様式の建築の非常に見事な例となりました。この時期の重要な建築物には、ジェームズ・ガンドン(1743-1823)の設計によるダブリンのカスタム・ハウスやフォー・コーツがあり、頂上の銅のドームが特徴的です。19世紀には、ゴシック様式が再興して、コークの聖フィンバー大聖堂(1867)のような教会の設計に影響を及ぼしました。メイヨー県のアッシュフォード城(1870年頃)の建設では、ゴシック様式が住居建築にも採り入れられています。 

音楽
音楽は、アイルランドの文化の中で常に重要な役割を果たしてきました。古くから、祝祭や葬儀には伝統的に器楽演奏やバラッドの歌唱の形で伴奏があり、現代に至っても、世界中のアイルランド系社会でアイリッシュ・ダンスが非常に活発に行われています。遠い過去の時代には、アイリッシュ・ハ一プが最も重要な楽器でした。作品が現存するアイルランド最古の作曲家の1人であるターロック・オキャロラン(1670-1738)は、盲目のハープ奏者であり、古代の吟遊詩人の伝統をとどめる最後の1人でした。
また、他の欧州諸国の作曲家が開拓した形のクラシック音楽の伝統も存在します。18世紀のダブリンは音楽の重要な中核拠点であり、ヘンデルは「メサイア」を1742年にダブリンで初演しました。20世紀になって、伝統的なアイルランド音楽はショーン・オ・リアダ(1931-71)をはじめとする現代作曲家の創作の源泉となりました。ジョン・マコーマック(1884-1945)は、世界的に著名なアイルランドのテノール歌手でした。
伝統的なアイルランド音楽は、クラナド、ザ・チーフタンズ、アルタン、ダーヴィッシュ、ルナサ、アヌーナなど、多彩なグループの影響で、多くの国で人気があります。このようなグループはすべて、アイルランド伝統音楽の原型を維持しながら現代的な解釈で演奏を行っています。こうしたアイルランド伝統音楽の多様性を如実に表しているのが、「リバーダンス」の大ヒットです。ビル・ウィーランが音楽を作曲したこのリバーダンスは、アイルランドの詩歌、音楽、踊りの長所を融合しています。アイルランド音楽家協会(CCÉ:Comhaltas Ceoltóirí Éireann)は、アイルランドの伝統音楽とダンスの発展と保存に大きな役割を果たしています。
ジャズ・シーンでは、ギタリストのルイ・スチュワートが世界の有名ミュージシャンと共演しています。U2やウェストライフなどのバンドは、アイルランドの内外で有名であり、ヴァン・モリソンやシネイド・オコナー、エンヤなどの歌手も同様です。
アイルランドでは3つの常設プロ・オーケストラ(RTÉ交響楽団、RTÉコンサート・オーケストラ、アイルランド室内管弦楽団)が活動しているほか、プロのオペラ鑑賞も楽しむことができます(国立の常設プロ歌劇団であるオペラ・シアター・カンパニー、ウェックスフォードにある専用劇場を舞台にオペラ・フェスティバルを主催するウェックスフォード・オペラ・カンパニー、ダブリンの国立コンサート・ホールで定期公演を行うリリック・オペラ・カンパニー)。また、個人のクラシック演奏家でも、著名なピアニストのジョン・オコナーや、歌手のアン・マレイ、スザンヌ・マーフィなど、多数の逸材を輩出しています。 

映画
リュミエール兄弟が1897年にサックビル通り(現在のオコンネル通り)で映画を撮影して以来、アイルランドで制作された映画、そしてアイルランドを題材にした映画が数多く登場してきました。ダブリン生まれのレックス・イングラムは、20世紀初頭にハリウッドで活躍したサイレント映画の監督でした。1910年、アメリ力人のシドニー・オルコットは、2つの大陸にまたがって制作された初めての映画である「The Lad from Old Ireland」をニューヨークとケリー県で撮影しました。それ以来、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォード、フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ヒューストン、スティーブン・スピルバーグのような多数の国際的な監督による作品がアイルランドで撮影されています。
20世紀を通じて、アイルランドの映画制作会社は、非常に多くのアマチュア映画、ニュース映画、ドキュメンタリー、報知映画を生み出してきました。しかし、本当にアイルランドに根ざした形で制作されたフィクション映画が次々と登場して、それまで外国映画に描かれてきたアイルランド像とは大きく異なる衝撃的な映像を提供し始めたのは、1970年代に入ってからのことでした。
アイルランドの制作会社、監督、脚本家の作品は、アイリッシュ・フィルム・ボード(IFB)によって助成されており、長編、短編、アニメーション映画、そしてアイルランド語の作品の制作と配給に資金が提供されています。
アイルランド映画は国際的な称賛を集めています。代表的な作品は、「マイケル・コリンズ」(ニール・ジョーダン、1996年)、「アイ・ウェント・ダウン」(パディ・ブレスナック、1997年)、「ザ・ジェネラル」(ジョン・ブアマン、1998年)、「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ、2006年、カンヌ国際映画祭パルムドール賞受賞作品)、「Once ダブリンの街角で」(ジョン・カーニー、2006年、アカデミー賞歌曲賞受賞作品)などがあります。
ダブリン、コーク、ゴールウェイ、ベルファストで年1回開催される映画祭では、アイルランド映画や外国映画が特別公開されます。また、アート・ハウス・シネマのための常設の場が、ダブリンのアイリッシュ・フィルム・センター、コークのキーノ、ゴールウェイのタウン・ホールで提供されています。2010年には、アイルランドのアニメーター、リチャード・ベネハムが、「アバター」の制作で、米国アカデミー賞の視覚効果賞とBAFTA(英国映画テレビ芸術アカデミー)による英国アカデミー賞の特殊視覚効果賞を獲得しました。


アビー劇場(The National Theatre Society):www.abbeytheatre.ie


国立コンサート・ホール:www.nch.ie

国立公文書館:www.nationalarchives.ie

アイルランド近代美術館:www.modernart.ie

アイルランド国立美術館:www.nationalgallery.ie

アイルランド国立図書館:www.nli.ie

アイルランド国立博物館:www.museum.ie

チェスター・ビーティ・ライブラリー:www.cbl.ie

アイルランド人文社会学研究評議会:www.irchss.ie

図書館評議会(An Chomhairle Leabharlanna):www.librarycouncil.ie

アイリッシュ・フィルム・ボード(Bord Scannán na hÉireann):www.filmboard.ie




スポーツ
アイルランドで最も人気のあるスポーツは、ゲーリック・フットボール、ハーリング、カモギーといったアイルランド固有の伝統的な競技で、いずれもほとんどアイルランド国内と在外アイルランド人社会の中でしかプレーされていません。夏季には、ハーリングとゲーリック・フットボールのアイルランド全国選手権大会が開催され、大勢の観衆が詰めかけます。そして、ダブリンのクローク・パークで開催される決勝戦でアイルランドのスポーツ・シーズンは最高潮を迎えます。
サッカーはあらゆる年齢層に人気があり、学校からシニアまであらゆるレベルで国内大会が開かれています。アイルランド共和国代表として国際試合を戦うアイルランド代表チームは、ここ数年、優れた成績を上げており、熱狂的で温かいファンの声援に支えられています。チームは、UEFA Euro 2012(欧州選手権)の本大会出場権を獲得しました。
ラグビーはアイルランドの人気スポーツであり、国際試合、クラブチーム、学校の各レベルで盛んに競技されています。運営団体はアイルランド・ラグビー協会(IRFU)です。アイルランドは、年に一度の国際大会であるシックス・ネイションズ(欧州6か国対抗戦)に参加しており、2009年は優勝を飾っています。
アイルランドは、射撃、釣りなどのフィールド・スポーツや、さまざまな馬術競技、ショー・ジャンピング、競馬などでも、高く評価されています。アイルランドのサラブレッド産業は、世界で最も優れたものの1つであると見なされています。
アイルランドには3,000キロメートルを超える海岸線と非常に多くの内陸水路があるため、ヨット(セーリング)とボートが長い歴史を持つスポーツとなっています。さらに、釣り、水上スキー、カヌー、ウィンドサーフィン、ダイビング、水泳など、幅広いマリン・レジャーも盛んです。
国内には、400以上のゴルフコースがあります。アイルランド代表チームは国際アマチュア・ゴルフ大会に出場しており、プロの国際大会としてアイルランドが開催している主なトーナメントとしては、アイルランド・オープンとアイルランドプロゴルフ選手権があります。2006年には、ライダーカップがアイルランドで開催され、アイルランドのトップ・ゴルファーであるパドレイグ・ハリントン、ダレン・クラーク、ポール・マッギンリーが、米国チームに対する欧州チームの勝利に貢献しました。その後、ハリントンは、2007年7月と2008年の全英オープン、そして2008年の全米プロゴルフ選手権を制覇し、3度の「メジャー大会」の優勝者となりました。2010年と2011年は、北アイルランド出身のゴルファーが素晴らしい成績を上げた年でした。グレアム・マクドウェル、ローリー・マキロイ、ダレン・クラークが、それぞれ、2010年全米マスターズ、2011年全米オープン、2011年全英オープンという3つのメジャー・トーナメントを制覇しました。
アイルランドは、これまで、権威あるスポーツ・イベントをその開催国として成功させてきた実績があり、2003年の6月にはスペシャル・オリンピックス世界大会がアイルランドで開催されました。これは、アイルランド史上最大のスポーツ・イベントとなり、7,000人を超えるスペシャル・アスリートが160か国からアイルランドに集い、このユニークなスポーツの祭典に参加しました。2011年9月に、アイルランドは、2年に1回開催される女性プロ・ゴルファーのソルハイム・カップ(Solheim Cup)をキリーン城ゴルフ・リゾート(ミース県)で主催しました。


アイリッシュ・スポーツ・カウンシル:www.irishsportscouncil.ie


アイルランド・サッカー協会(FAI):www.fai.ie

アイルランド・ラグビーフットボール協会:www.irfu.ie

ゲーリック体育協会(GAA):www.gaa.ie

アイルランド競馬協会:www.horseracingireland.ie

アイルランド・ゴルフ連盟:www.gui.ie

スペシャル・オリンピックス・アイルランド:www.specialolympics.ie

アイルランド・オリンピック委員会:www.olympicsport.ie








アイルランド-日本交流史







アイルランド人は長年にわたって日本を訪れ、近代日本に重要な貢献をする一方でアイルランドのことも日本に紹介してきました。皆さんはホッケーがアイルランドから日本に紹介されたと知っていましたか?銀座がアイルランド人によって設計されたことは?また岩倉使節団の団員がダブリンでギネスを飲んだことや、小泉八雲がアイルランド人だと知っていましたか?日本に歴史的な貢献をしたアイルランド人たちについて学んでみてください。


ロバート・ジャンセン 1704年に九州を訪れたアイルランド人船員


 日本を訪れたアイルランド人に関する最も古い記録は、1704年7月に九州沖で捕らえられたアイルランド人船員ロバート・ジャンセンにさかのぼる。ウォーターフォード出身のジャンセンと5名の仲間は、フィリピンにあるオランダ東インド会社から逃れ、小船で中国の広東を目指していたところ、九州沖合いの小さな島近くで薩摩藩によって捕らえられた。一行は、鹿児島で拘束された後、長崎に移送された。当時の日本は鎖国下で外国に門戸を閉じていた。ジャンセン他5名はポルトガルの宣教団ではないかと疑われ、1704年11月まで拘束された。その後、釈放されオランダ領東インドにあるバタビア(現在のジャカルタ)に向かうオランダ船に乗船することを許された。



岩倉使節団 1872 123 )

今から約135年前にあたる1871年から1873年にかけて、有名な岩倉使節団はヨーロッパとアメリカ合衆国を訪れた。同使節団は岩倉具視を団長とし、明治政府による近代化計画を推進するため最新の技術や教育の実践を学ぶことに熱心な政府の専門家や学生など総勢100名を超える団員で構成された。一行は1872年8月17日、アメリカ合衆国よりイギリスのリヴァプールに到着し12月16日まで滞在した。この間の12月3日に使節団の副長である木戸孝允(写真左)が他の団員3名と共にダブリンを訪問した。残念ながら、彼らのアイルランドに対する印象を知ることはできない。しかし、現在毎年アイルランドを訪れる何千人もの日本人観光客と同じように、有名なギネスの醸造所を訪れギネスを飲んでみたことはわかっている。このダブリン訪問が日本政府の代表による初めての訪問だったとも考えられる。

ラフカディオ・ハーン/ 小泉八雲(1850 1904

ラフカディオ・ハーン、または日本名で小泉八雲として知られる彼はおそらく日本で最も有名なアイルランド人であろう。1850年にギリシャのレフカス島で英国軍医だったアイルランド人の父親とギリシャ人の母親の間に生まれ、幼少時はダブリンの叔母の元で育ち、後にイギリス・アメリカに移住してジャーナリスト/翻訳者/作家となる。1890年に雑誌の取材で初めて日本を訪れ、その後14年の余生を日本で送った。日本女性と結婚した彼は小泉八雲の名で日本に帰化し、島根県松江市の学校で教える一介の教師から後には帝国大学の英文学教授として教鞭をとるまでになった。ハーンの名は日本について書かれた12冊の著作によって広く知られる。なかでも、彼の西日本での旅行記に1890年代の日本文化・宗教研究が盛り込まれた1894年出版の第一作目「日本瞥見記」がおそらく最も有名な作品であろう。また最後の著作である「日本 ‐一つの試論」は彼が実際に経験した封建社会から急速に現代化する日本の姿を歴史的に検証しているが、他の著作同様、「古きよき日本」の習慣や慣わしが失われてゆくことへの遺憾の念が全篇を通して感じられる。この「古きよき日本」への理解と共鳴がハーンの著書がこれほど広く愛される理由であろう。ハーンが日本と日本文化を西洋に知らしめる上で重大な貢献をしたことは間違いない。アイルランド大使館では1987年にハーンの著作や伝記を集めた図書館を開館した。また2004年にはハーンの没後100年を記念して様々な国際シンポジウムをはじめ様々なイベントが開催され、日本郵政公社は記念切手を発行した。


日本ホッケーの父

ウィリアム・トーマス・グレー牧師

18751968 

アイルランド人はスポーツ好きで知られるが、1906年に日本にホッケーを紹介したのもウィリアム・トーマス・グレー牧師というアイルランド人だった。

1875年に生まれ、1905年に宣教師として東京に赴任する。ダブリン大学トリニティ・カレッジ在学中に熱心なホッケー部員だった彼は、1906年に日本ではじめてホッケーを慶応大学に紹介し、これにより現代スポーツであるホッケーは日本で発展していった。グレー牧師は12年間、慶応の学生たちのホッケーの指導にあたり、アイルランドに帰国した後、1968年に没し、ダブリンに葬られている。現在も同師は日本・慶応のホッケーの父として深く尊敬されている。2005年、慶応大学ホッケー部の学生たちは創部100周年を翌年に控え、アイルランドを訪れてグレー牧師夫妻の墓参をし、記念碑を設置した。またトリニティ・カレッジおよびアイルランド学生選抜と親善試合を行った。




初代「君が代」の作曲者

ジョン・ウィリアム・フェントン (1828- ?)

日本の国歌「君が代」の初代はアイルランド人、ジョン・ウィリアム・フェントンによって作曲された。フェントンは1828年アイルランドのコーク県キンセールに生まれる。明治維新の年である1868年に英国海兵第10歩兵連隊第1大隊の楽長として横浜に到着、翌1869年に横浜妙香寺にて薩摩藩士に軍楽伝習を開始した。1870年10月、明治天皇が薩摩藩をはじめとする4藩の越中島操練を天覧する際、薩摩軍楽隊が初演奏したが、このときにフェントンが急ぎ「君が代」の歌詞に曲をつけて礼式曲を作曲した。このフェントン版「君が代」は、現在の「君が代」ができるまでは国歌として受け入れられていた。フェントンは、日本吹奏楽の父として、日本の音楽界に大きく貢献したことでも知られている。 



銀座を設計した男

トーマス・ジェームズ・ウォーターズ

18421898 

銀座はその華やかさや高級ブランド店、地価の高さなどで知られているが、現在の街路がアイルランド人によって設計されたことはあまり知られていないかもしれない。トーマス・ジェームズ・ウォーターズは1842年、アイルランドのオファリー県バーに生まれ、1864年から1877年まで日本に滞在する。最初は技師として薩摩藩に雇われ九州で働いていたが、その後大阪へ移り、日本政府からの委託で帝国造幣局を設計する。この功績が認められ、東京に招かれて竹橋兵舎や銀座の煉瓦街の設計といったより大きな国家プロジェクトに参画することになる。彼の功績のなかでも特筆すべきは銀座であり、1872年に銀座が大火にみまわれた際、日本政府は不燃都市の実現を目指してウォーターズに煉瓦街の建設を依頼した。今日見られる碁盤目状の街路とアイルランドの首都ダブリンの建築物の影響を受けた2階建てのジョージアン様式の煉瓦街は、銀座をこれまでの伝統的な江戸の町から明治の「文明開化の街」へと変えた。彼は「日本の近代化」に貢献した技師・建築家として高く評価されている。

チャールズ・ディッキンソン・ウェスト

(1847-1908)

アイルランド人は日本の工学界に長年にわたって大きく貢献してきた。最もよく知られているのは、明治時代に東京大学で機械工学および造船工学の専門家として尊敬されるようになったチャールズ・ディクソン・ウェストである。1847年にダブリンに生まれ、有名なトリニティ・カレッジで学ぶ。1882年8月、明治政府の招聘によりヘンリー・ダイヤーの後任の「お雇い外人」として35歳のときに来日し、工部大学校で機械課教授として蒸気機関機械学、機械図学、機械工学、造船図学、造船学などを教えた。温厚で親しみやすい人柄のウェストは教え方も丁寧で生徒から尊敬されていたようである。ウェストは1886年帝国大学令により出来た東京帝国大学工学大学で引き続き機械工学、造船学の教授として教鞭をとった。1888年には石川島造船所で2隻のヨットを設計、製作し、趣味として活用するだけでなく、運動の奨励、造船学の授業で使用した。ウェストは1908年1月肺炎で亡くなるまで25年間、日本に滞在した。東京大学工学部構内にはウェストの胸像があり、日本機械学会が長年管理していた青山霊園内のウェストの墓も2006年秋より東京大学に管理されている。